第6巻 日本酒の歴史(前)

民の酒・宮中の酒

1.民の酒

大化改新(645)の翌年、農民への「魚酒禁令(ぎょしゅきんれい)」注)が初めて公布されました。
その後8~9世紀初期までに「群酒禁止令(ぐんしゅきんしれい)」と共に「魚酒禁令」が幾度となく出されていたことより、農民も酒を飲む機会が度々あったことが推察されます。
彼らは、手造りや市の濁酒(にごりざけ)を買って飲みました。 また大半の貧しい人々の中には、「万葉集」の山上憶良の歌(貧窮問答歌;ひんきゅうもんどうか)のように「糟湯酒」(かすゆざけ;酒粕をお湯で溶いた粕汁)を飲んで寒さをしのいだ人もありました。
注)魚酒禁令:「日本書紀」に「農作の月は、田作りに励め、魚酒を禁ぜよ」とある。
これらの禁令は、田畑をおろそかにし、生活が放縦にならないように戒めたもの。

2.市の旨酒(うまざけ)

「古事記」雄略紀には古代の市として、倭の高市・大和の軽市・河内の餌香市(えかいち)が現れました。
また「日本書紀」には餌香市の旨酒や吉備の旨酒の記述があり、5世紀末には当時の庶民も市の旨酒を飲んだものと思われます。
記録によりますと、「浄酒」は米の価格の約2.4倍の値段で、「古酒(こざけ)」は1.4、「粉酒(こざけ:濁酒系の酒と推定される)」、「白酒」は共に米の価格と同等の値段とあります。
また、大同1年(806)には水害のため、右京・左京・難波津・山崎津の酒屋の甕を封じて、濁酒の製造、販売を禁止しました。

3.宮中の酒

「令義解(りょうぎのげ)」によれば、宮中の酒造りは造酒司(さけのつかさ)で行われ、その長官である造酒正(さけのかみ)以下75名で、大和・河内の酒戸(さけべ)185戸の出身者に限られていました。
造酒司で作られた酒のうち「清酒」「浄酒」等は、上澄した酒又はもろみを布で濾過した酒で、主に宮中の公式宴会用や上級役人の給与酒として用いられ、下級官人や役夫へは「濁酒」「古酒」「粉酒」「白酒」等が支給されました。