第7巻 日本酒の歴史(後)

灘酒発展の主な要因

1.宮水の発見

天保11年(1840年)、「桜正宗」の祖、山邑太左衛門(やまむらたざえもん)が、西宮の「梅の木井戸」の水を魚崎の蔵に運び仕込水として用い、優秀な酒を醸造したことから「宮水」の評価が高まり、灘の酒造家は競って仕込水に「宮水」を使用しました。
宮水にはリン酸塩やカリウムが多く含まれ、酵母や麹の繁殖を助けて発酵を盛んにします。

2.水車精米

伊丹・池田がまだ足踏みで精米をしていた頃、灘では六甲山を下る急流を利用していち早く水車精米を行い、18世紀には2割5分から3割5分ものぬ か等を取り除いた精白米が使われました。水車を利用したことで、一定時間に大量 の米が処理できるようになり、労働生産性が高まると共に、仕舞個数(1日10石の原料白米が仕込まれるのを1個仕舞と呼びます)を大きくして酒の量産化が可能になりました。

水車小屋よりの白米運搬

3.寒造りへの集中

従来、諸白造りは、陰暦7月から3月までの9ヶ月間に季節に応じて、新酒間酒・寒前酒・寒酒・春酒造りが行われていましたが、灘では寒い時期に新米と季節労働力を利用して、集中的に酒造りをすることにより経済的にも有利になりました。
また、細菌汚染も少なくなり品質的にも向上しました。
醸造期間を短縮するために:(1)もと日数の短縮 (2)醪日数の短縮(3)仕舞個数の増大 (4)酒蔵の大型化 等々が実施されました。

4.汲水の増加

一般に甘口の酒を望んだり発酵を抑える必要のある時は、汲水歩合を小さくし、逆に発酵を促進させる必要のある時は大きくします。(汲水(くみみず):もろみの仕込水の意。汲水歩合=汲水/白米×100%)
18世紀後半の灘酒の汲水歩合は66%ほどで、伊丹の60%をやや上回る程度でしたが、1850年頃には120%にもなり、以後灘の汲水歩合として現在に受け継がれています。
この頃から濃厚な酒よりも淡麗な酒の方が好まれるようになりました。